道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

映画作品〇茶道の奥深さを垣間見せる「日々是好日」

 「今日もまた、よい日である。」日々是好日がそういう意味だということは私にもわかる。で、それだけの意味の言葉なのだろうか。

 七夕の今日、茶道をテーマとした映画作品である「日々是好日」を見た。奥行きのある映画だと思った。後になって意味が分かる、または新たな解釈が生じるそういう奥深さを感じた。

 単にお茶を飲むというなら、コンビニでペットボトル入りのお茶を買ってきて、キャップをひねって開ければ済む。では、それを喫茶と言うだろうか。あの世俗を離れたような茶室、広いとは言えない佇まいの中で定められた作法にのっとって、お茶を点て、お茶を飲む、それは窮屈というより至極の贅沢なのではないか、そんなことも考えさせられた。

 型というか、形と言うか、形式主義と言えば、その通りかもしれない。しかし、長年にわたって継承されてきた、その形式には茶を味わうという一点において一定の合理性があることも察せられる。そして、やはり茶室という空間の神秘性の印象が残る。あれこそ元祖パワースポットと言うか、日本式瞑想ルームと言うか、あの世俗を離れた感じが現代日本が忘却したもののように思える。
 
 映画の話をすれば、主人公は、書は画として鑑賞すれば深く味わえるとか、茶器に注がれる音が水と湯では違うことを発見したりとか、不器用でも茶道を長く続けた人ならではの感覚を身に着けていく。それは茶道と言う道の奥へ奥へと進んでいく姿でもある。その主人公は黒木華が好演している。そして茶道の師範は樹木希林が演じ切っている。俗中聖ありというか、動中静ありと言うか、玄妙である。

 原作者の森下典子氏が茶道の師範について語っている文章を見つけたので紹介したい。
 「武田先生は、男性にも女性にも、子供にも大人にも、同じ視線、同じ声色で話しかけた。権威に対して敬意は表するけれど、臆したり、おもねったりすることがなかった。そして、誰の前でも、「私はこう思う」と、自分の考えをはっきり口にする人だった。」

 権威に対して敬意は表するけれど、臆したり、おもねない。それは利休の精神でもあろう。