道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

気まぐれ短歌②命のはじめ

 まどろみて命のはじめ思ふとき太古の海に差しそむ光

 命の初めを私は知らない。三島由紀夫氏は自分が取り上げられた時を記憶していたらしいが、私は生まれたときのことを覚えていない。ただ、命のはじめを考えると怖いという気持ちと愛おしいという気持ちが交錯するような感覚になる。

 

 一歩引いて考えてみる。単に人と言うことではなく、この地球に原始の命が発生したところとはどこだろう。それは、光差しそめる浅い海、海底から滋味豊かな気泡がとめどなく湧出するところという説を聞いたことがある。そこに植物性のプランクトンが誕生した。

 

 この説の科学的な検証も興味深いが、とりあえず文学の上から命のはじめと言うことを考えてみたい。

 私は非クリスチャンながら聖書に対して表面的な知識は持っているが、その記述の全てを事実とは考えていない。そういう前提に立っていえば神と呼ばれる存在の意思により、この宇宙が発生したとは思わない。

 かといって、宇宙の始源に超高圧の一点があったという、ビッグバンも論理的によくわからない。例えば、宇宙には果てがあり、その果てが今も拡大し続けているならば、その膨張の時間軸をさかのぼれば収縮し一点に帰すということは言える気もする。そういう理解でいいのであろうか。

 

 では今度は、人の命のはじまりと言うことを少し文学的に考えてみる。

 生のはじまりを光と考えるか闇と考えるか。闇と考える方が自然な気がする。それも真っ暗闇ではない、薄明かりが差すような世界である。深い海の底のような象意を帯びる世界である。そして、淡き光が立つ世界でもある。

「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」(空海

 

 余談であるが、よく寝た日の朝は深い海に潜り生還したような感覚を覚える。