言論の自由などない時代。僧侶の言葉の破壊力として「俺は海賊王になる!」をはるかに上回っているように感じられる。己が幕府や朝廷をも含めた日本国の船になると言っているのである。しかも立宗前の31才の若造の頃の言葉である。彼は伊勢神宮で、この誓願を立てた。
彼の出生地、房総半島には独立自尊の気風があったのだろう。頼朝を助けてやったのは我らだというような意気。地域に暗い影を落とす念仏宗の横柄な弾圧には屈しないという反骨心。極端に言えば彼は東国に生を享けた仏教者として極めて土着的な信仰心を根源に持っていた。
一方、令和二年の春、コロナ疲れの世相の中で首相を盛り立てていこう、政府の方針に従おうというような論調が一部に生じ、生じたそばから批判を浴びている。安倍首相のコロナ対策は全てが裏目に出ているように見受けられる。首相が芸能人とコラボし、自宅にいようと呼びかけても、それを自分の夫人に言えなどと指摘される始末である。
昨年から何度か、私が政権を批判する記事を書いた時は相当、言葉を選んでいたが、潮目が変わったのか猫も杓子も、安易に政権を批判し始めてきた。私個人は安倍さんの政治手法と憲法論は誤っていると思うが、主義主張とは別に風見鶏が骨もなく、政権を批判するなと言いたい気もある。
「俺たちは時代を作っていたのではない、誰よりも時代に翻弄されきたのだ、そして今、時代にのみ込まれようとしている。」と大型時代劇で脚本家が主人公に言わせていたシーンがあったことを思い出す。考えようによっては安倍さんという人は、複数の脚本家の意向に八方美人的に沿う、優秀な監督だったのかもしれない。
本題に戻ると標題の言葉は日蓮の言葉。日蓮宗の信徒に、当然、この言葉を知っていると思い、どう思うかと訊いたところ、「随分と思いあがった人間の言葉だ」と答えた。貴家の宗祖の言葉です、と指摘すると黙った。私が、「並の僧侶には口にできない気概に満ちた言葉だという見方もある。」と言うと、そうだとうなづいた。傲岸不遜、純真無垢という対極の評価が日蓮という一人の人に内包されるところに、この人物の功罪と存在感が備わる。
彼の第一の罪は、仏教界に混乱をきたし和合を破ったことである。これは本人も自覚していたようだが自覚以上の重罪である。彼の第一の功は、罪と隣り合わせながら、当時の政治的・宗教的権威にひるまず自ら正論と信じるところを、信念に忠実に申したところである。
明治時代のキリスト者、内村鑑三はその著書、「代表的日本人」の中で日蓮を取り上げている。確かに彼の気質は「ユダヤの王」を詐称した罪で磔刑に処されたナザレのイエスに似たところがある。念仏宗が権威と結託し重税を庶民に課していたという一部の現実に、僧侶である彼が抗議をしたのは正当なことである。
日蓮上人最期の地の池上には、今や彼の命日前日には御会式として全国から怒涛のような信徒が集結する。面白いのは、この祭りには彼が徹底攻撃した他宗の信徒も参加している点である。今年は中止になるだろうが日蓮に、御会式を見せてやりたいと思う。