道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

いにしえ人の言葉④信心の異なるを嘆き、泣く泣く筆を執る。故に歎異抄(たんにしょう)と名付ける

  私が関東にいたころ、節分の頃に漁村を訪れたことがある。散歩をしていて海岸沿いの神社の鳥居に干したイワシが巻き付けられていた。これが「イワシの頭も信心から」という諺の由来なのだなと思ったが、そもそも鳥居にイワシを巻き付ける由来までは分からなかった。

 

 本日、道新(北海道新聞)を読んでいて、不意にその答えかもと思う記述があった。それは次のような記事である。

 

 その昔、アイヌは隣の村に天然痘が発生したと聞くと、自分たちの村の入り口に、魚の尻尾や骨などを置きました。「俺たちの村は、こんな粗末な物しか食べていない。パコロカムイが来ても、何のもてなしもできない。どうかよその村に行ってくれ」という思いを込めたのです。

《朝の食卓 「パコロカムイ(流行病の精霊)」 原田公久枝氏 一部抜粋》

 

 アイヌの、その風習が和人からもたらされた可能性もある。アイヌ独自のものかもしれないが、単に腐臭による魔除けというより、疫病の精霊への御馳走はないというメッセージだとする見方に説得力がある。

 

 本題に入ると私が関東にいたころ、何度か浄土真宗系の寺院で開催されていた勉強会に出席した。その会の出席者が死後の世界のことを「お浄土」と称し、死後、自分はそこへ行くと信じているらしい認識に衝撃を受けた。しかも、お浄土で自分の祖先に会えるのだと正気かと思うことを平気で言う。当時は「はあ」とうなづくことしかできなかった。

 

 これはあくまで主観であるが、お寺で何かイベントがあるのを知り、どこのお寺かと調べると浄土真宗系であることが多い。確かに浄土真宗系の僧侶は有髪も認められているし、もともと大衆的というか、敷居が低いのかもしれない。気取って格調高い寺よりは庶民からしたら親しみやすいということになる。

 

 前回の日蓮上人にまつわる記事で当時の関東の念仏宗の腐敗権力化を書いた。そのことには年老いた親鸞上人も実は胸を痛めていた。憂慮した上で自分の息子を関東に派遣したが、息子が断りなく新たな教義を立てるという事態(異議異説)に及び、息子と断絶までしている。(善鸞事件)

 

 歎異抄親鸞が、善鸞事件以降に語っていた内容が弟子によって編纂されたものである。例えばその考え方を言えば、学識を修めた善人が晴れて浄土へ行けるのではなく、誰しも無条件に、阿弥陀仏の慈悲深き本願を信じ、名号を唱えるものは浄土へ往生できるということになる。

 これは、様々な曲解を生む要素が含まれているし、阿弥陀仏という存在を受け入れること自体が凡人には難しい面もあると思う。現代の同宗派は、誤った解釈が生じないようにという観点からか聞法ということを大事にしている点も印象深い。そう言えば被災地におけるボランティアでも彼らはフットワークの軽さを見せている。自力本願系の僧侶の方は折れてしまっていたり、悲壮感が強い。

 

 歎異抄は、宗教的な読み物であることは間違いはないが、読みやすく、思索的には深いところをわかりやすく指摘しているものでもある。現代語訳を単純に読むだけなら一時間半程度で読める点も一つの魅力である。