道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

SNS抗議の加速に対する期待と危惧

 いつからか、有権者の貴重な一票と言う言葉に対して疑問を感じるようになった。選挙だけが有権者の意思表示ではないという論説を新聞で読んだ時からだ。議員は当選してから次の選挙に至るまでの間の議員活動が正しく評価されなければならないのに、良くも悪くも、選挙になると個人の評価以上に所属する政党への支持・不支持が審判の材料になる。つまり、選挙というのは厳粛な審判の楊である反面、選挙という活動そのものに対する熱意やテクニック、組織力、資金力などが集票に影響する点からは一過的な高揚の場でもある。
 そうかと言って選挙以外、例えば、誰しも首相官邸を取り巻くデモに参加できる訳ではない。単に地方に住んでいるからというようなことではなく、デモであれ何であれ徒党を組むことに対する抵抗もある(私のことを申している)。一般市民を装っていながら、金で動くプロ市民もいるという。金で動くということが事実なら政治的信念など何もなく、報酬目当ての瞬発力だけで行動しているということになり遺憾である。

 本題に入ると、コロナの感染不安はデモ活動をも自粛に追い込んだ。そして、芸能人など社会に対する影響力が大きい層をも自粛に追い込んだ。その結果、はからずしも芸能人等を巻き込んだSNSによる政治的案件への抗議活動が発生し、じわりと拡大した。その影響力は十分に政府の方針に影響を与え、のみならず結果的に政府の方針を覆す気配が濃厚である。どこまでが純粋にSNS抗議の影響であるか判定はできないが、山が動きつつある。

 SNS抗議は集合知的な民意を相当反映していると考えられるが、魚の群れのようなもので、先頭さえ操作できれば全体が誘導を受けかねない危うさがある。例えば「密です」のようなSNS受けしうる言葉を瞬時に言えるタイプの軽い政治家が受ける怖さもある。多くのフォロワーをもつ著名人の中立性を欠いた放言が世論を形成してしまう怖さもある。

 おそらくであるが、今後は政権よりのコメンテーターや無難なコメントしかできない著名人は不要であるという流れが生じる。それは、実はどこかぎすぎすした世界の到来でもある。目を引くような強い言葉の文章に惑わされることなく、フォロワー何万人の誰それというブランドに振り回されることなく、弊ブログは今後も独自の反骨路線を維持したい。力が正義なのではなく、正義を行えるものに正しい力が備わることを応援したい。