道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

時代にあらがった男たち

 ~「明治・・・明るく治める。」彼ら「旧幕府敗走軍」から見れば、その年号さえも欺瞞に満ちたものに思えたことだろう(1868年10月23日に慶応から明治に切り替わる)。明治新政府は、旧幕府軍の北海道の地における開拓民の申し出を頑なに認めず、そして、反乱の懸念ありとして新政権樹立の宣言も決して認めることはなかった。
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 「箱館新政権なるものが、海軍の主力を欠いた今、如何なる宣言をしようともはや我らの敵ではなく、彼らは、ただの迷妄的な賊軍である。彼我の関係が対等ではなく、したがって内戦という状態が既に解消されていることを賢明なる諸氏に理解していただけるものと考える所存である。」
 明治新政府が各国の在日領事に、そのような説明をした時、異論をはさむ声は既にでなかった。列強諸国はこれ以上、双方に便宜を図るような態度で臨むよりも、明治新政府のみを日本政府と認めた方が利があると判断をした。~

 たば風の吹きすさぶ雪原で彼らの胸中にあったものとは何だったのか。反逆者としての不屈の闘志であったか、それともー。識者によって様々な見方があるが、明治維新という我が国の大混乱期において、この函館の地には一つの独立政権が13日間だけ誕生した。それは政権樹立宣言(12月15日)から旗艦の開陽丸を失った日(27日)までである。
 
 サムライの定義は、貴人に仕える警護者である。武士とは、古来は弓馬の道とも称され、馬上から弓を射るなどの特殊兵術を持つ者である。幕府とは陣中に張り巡らせた閣議所から転じた武士を中心とした政治機関である。これを前提とすれば、明治維新を境に武士が消えたわけではなく、箱館新政権をラスト・サムライとも言いかねるが、西側の朝廷に対し距離をとる原型的な幕府の系譜にあったことは確かである。

 いわゆる蝦夷共和国と言う名称は後世に生じた通称とされるが、彼らの組織は盤石な一枚岩だった訳でなく、様々な動機により時代の潮流にあらがった男たちの集まりであり、命を生きながらえることを目的とはしていなかった向きがある。もし負け組と言う言葉を当て嵌めるなら、これ以上ない負け組の組織であり、ただ単に勝利や生き残りをテーゼとしていないところに、しみわたるロマン性がある。

 彼らの身分も動機も、所属も学識もが違いすぎたが故に、総裁を入れ札で決めるという手順は決してパフォーマンスではなく、必須の経緯であったとも考えられる。公的記録が残る形では、日本初の選挙であり、それはフランス軍人を上級顧問としていることからフランス革命の精神性を継承しているということも言えるのである。
 この政権が、それなりに民主的であったことの証は陸軍奉行の大鳥圭介は地方の医者の生まれ、陸軍奉行並の土方歳三は田舎の農家の生まれであったことから見て取れる。大鳥は学識、土方は剣術と戦功の点で認められ閣僚に選出されたのである。
 なお総裁の榎本武揚に関しては様々な評価が存在するが、父が地図製作で知られる伊能忠敬の愛弟子だったことを含め、科学者としての合理性や冒険者的精神がうかがえる。