道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

友との対話が求める答え

 この手紙を書いた動機のもう一つに幼い日に知った西遊記という物語があった。それは現在の中国が唐と呼ばれていた時代に実在した僧の取経の旅をモチーフとした作品である。

 妖怪変化が行く手を阻み、難所の続く里程を西へ西へと行き続ける彼らの目的はよく分からなかったが意味のあるものに思えた。実在の彼は、その見識により宗教上の議論において無敗であったばかりでなく、議論相手は一様に彼に深い敬意を表したと言う。それは彼の知識には人格が伴っていたという証なのだろう。
 
 肖像画として残された彼の姿は、背に経典を背負いこみ、その風貌は僧というよりも、冒険者である。まるで道の続く果てまでも真理を求めるという気力が充溢している。

 世の戦乱をことごとく鎮め天下万民を安穏に導く。そのような経典は実在するのだろうか。思うに、真の智慧とは覚悟なき者には見つけられない意志なのではないか。逆説的に言うなら、田舎の図書館にでも世を平和に導く本は眠っているというべきだろう。
 例えば観音経には、苦しみの底にある人が観音を心に念じ、その名を唱えるなら、ありとあらゆる国土に観音はその身を変じ、諸々の危難を救うのだと明記されている。
 個人の主観を述べれば読経には個人の心を穏やかにする効果はある。世の苦しみを救う効果については私が納得できる証明がない。むしろ仏教者は不可思議な作用を頼みとすることなく、現実の苦しみに対して行動を通じて働きかけをする必要がある。
 殺すことなかれ。殺させることなかれ。例えば、全ての武器を楽器にという非現実的なことを私は願わない。ただ憎悪の応酬は智慧を用いて早期に終らせたいと願う。 

 私なりに平和を突き詰めて考え、核兵器使用禁止条約の2030年内の条約締結という結論に一度は達したが、今はパフォーマンス的に感じられる。むしろ戦禍の縮小に向けて私にも確実にできること、それを細く長く地道にしていかなければ意味がない。 

 ところで、戦争(紛争)が起きている国や地域とは特別な一帯なのだろうか。そうなる以前は、交通の要衝などとして繁栄してきた街というべきではないだろうか。
 知ったところで、どうしようもできない他国の争議に関わるのも愚かしい気がするし、他国の苦悩を日常生活には関わりがないと言って無関心になるのも危うさを感じる。
 結局は一人で三年間考えても答えは出せなかった。考える方向が先鋭化したり、盲点が生じている懸念が常にあった。それよりは対等な関係の友と対面で語り合っていくことが遥かに確実だということに気が付き始めている。今の私があなたに伝えたいことは日本の地にも、あなたの平穏を願っている人がいるという事実、そのことである。

 なお、あなたの国で本来行われるべき教育が行われず、先生たちが授業に人形劇などを取り入れるなどして、苦慮を重ねているご様子は日本にも伝えられている。それでも学問を放棄してはならない。最後に、あなたへの手紙を清書し筆を置く。