民俗学ブログ「現代シャーマニズム」

世相や街並み、祈りを記録する。かっちゃっぺなく書くのではなく、丁寧な記事作りに努めます。コメントには基本的にはお答えしたい方針です。なお他者を誹謗することのないようにお願いします。

命と向き合うことを放棄してはならない②露と落ち、露と消えにし

 若い頃、好奇心から一晩中森の中を彷徨ったことがある。それはヒグマや蛇の出る森だが、森の奥を東に突っ切れば川に着くはずであり、その川を下流に向かえば国道に出るだろうという思い付きを実証したかった。

 家を出たのは午後22時すぎ。森の入り口に着いたのが23時前ころ、森の入り口には寝静まった一軒家があり犬小屋が見えた。さて、その日は月夜だった。森に入ると暗くはないが、東に行くも何も道がない。引き返すことはできるが、そんなことをするくらいなら前進あるのみとばかりに、誘われるように森の奥深くに分け入った。誘われる?いや、誰かに呼ばれているのではない、これは自分が自分に課したチャレンジなのだ。

 その後、道なき孤独の森でどうなったか。気が付くと犬がすぐ私の後ろにいた。私が戸惑いながら、その犬を見ていると私を先導し始めた。見えなくなったなと思いながら犬の後を追うと、犬は私が来るのを待ち構えていた。私は犬を案内犬だと考えることにした。そうして、世の明ける頃、彼は姿を消した。結局彼の散歩に私は付き合わされただけなのか。そうして、ほどなく私は森の入り口に生還できた。森の中を、どうさまよったかは不明であるが前進し続けていた。

 少なからず、今思えば危険だったという体験があるものではないだろうか。そうして生き延びると、なぜ自分は助かったのかということを否応なしに考えさせられる。この命を、何か意味のあることに用いたいと望む。

 いのち、大和言葉で言う「いのち」は、「息の力」を縮めた言葉だと私は感じる。いのちの語源を検索に掛けると「息内(いきうち)」なる言葉が出てくる。いずれにせよ、呼吸の強弱、または有無に関する言葉だと諒解する。これは、生理的現象としての呼吸に着目した語で、例えば時代劇で医者が患者の鼻先に頬を当て、横隔膜の上下動を慎重に見定めているシーンを連想させる。少しでも呼吸があれば、南無とでも唱え、当時の蘇生術を試みる。人工的な心肺装置がなかった時代、まさに自分で呼吸をできるか否かが、シンプルな分岐点だったのだろう。そう言えば「いのち」という言葉はどこか、はかない響きを有している。
(なお、未検証の私見ではあるが「いのち」という言葉が用いられる以前に既に同義の言葉で「魂の緒」があったのではと察する。魂は人体にある時こそ固定性があるが、元来浮遊性を帯びたもので、うつつ(現世的世界)とうつ(霊的世界)の間を夢などで移動できるものと考えられる。なお、「いのち」は日本神話風に言うと、稲の霊を意味する「いねのち」の線も否定しきれない。いねのちを頂くなど。追って検証したい。)

 参考までに、漢字の命については、使命、任命、密命など字そのものが役割という意味を含んでいる。白川静氏の解釈によると命の字源は「神のお告げ、おおせ」ということである。命令はまさに上位から下位へのおおせである。人が、世に生を享けるのは命(おおせ)を授かったが故である。

 蛇足的に整理すると、通常、人は自分に与えられている天命を知ることはできない。したがって、主体的に人生を生きるためには、自らの命の意味を問い、志を明瞭に立てる必要がある。志はないよりはあった方がいい。一方、他動的に生きるというか、志など定めず柔らかなる水の如く、時に逆らわず流れのまま生きるという道も、あることはある。それは、抜け道的だが折れにくい生き方とも言える。

 、、、キリがいいので、本稿はここまでとして次稿は③人間に食せられたる熊が有する使命についてを考察する。掲載予定は再来週とし、余力あらば来週は気分転換に映画評でも扱うものとする。熱中症や、過労からくる免疫力低下に十分留意して、お過ごしください。