道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

神様、あなたを捜しています/「Pk」より

 「PK」は2016年公開のインド映画。主人公は調査目的で地球(の中のインド)に来た宇宙人。

 片田舎で服の着方と言葉を習得できた主人公は、義兄弟と別れ、インドの大都会デリ―に単身赴きPK(酔っぱらいの意)と呼ばれる存在に。彼はある探し物をするが、人々からは神に助けを乞うように突き放される。そして、各宗教の常識も知らぬままに神を捜し始める。しかし、神について知れば知るうちに疑問は募る一方。その疑問は、やがて社会を巻き込んで大きなうねりとなるというストーリー。結局、彼は神を見つけられるのか、そして、無事に故郷の星に帰ることはできるのか。

 日本はいわゆる八百万の神と仏と人口の1パーセント以下のキリスト教徒の国であるが、宗教事情に関してインドは途方もなく複雑である。単に多様な神々と宗教が存在しているだけでなく、深刻な対立や紛争が現実にあると言う点で、宗教は日本以上に緊張感のあるテーマでもある。本作の興行成績の優秀さは、タブーが故に実は多くの人が関心を抱く宗教事情をやんわりと鋭く指摘することに成功したということを物語っている。できれば、日本の宗教家の方々にも本作を見ることをおすすめしたい(きっと参考になるべき材料があると思います)。

 ところで数か月前、知人と話していた折、「実は、神とは気体のようなもの」だという話を聞いた。言いたいことはわからなくもない。正月の門松は歳神様にとってのアンテナという表現はあながち外れではない。
 それでも、「気体のような」という表現はつまり、「気体ではない」わけだから結局は何なのかということになる。更に、液体とか、固体とか、そういう譬えをすることで、かえって本質から外れる懸念がある。神とは心。自然。森羅万象、、、?本当にわかってるの?神を自然界のはたらきと定義した場合、「自然界の働き」に対し交通安全や、学業成就を祈願するのは奇妙な依存ではないだろうか。それでいて、大きな事件や事故があると神の不在を嘆きたくもなる。

 新約聖書の一節に従えば、神とは命であり、道であり、愛である。道とか、愛というのも漠然としているが、気体のようなという表現よりはいい。
 宗教的な意味で相手を認めることとは、私たちは根は同じだと言いながら内実は自己の優越性を誇ることではなく、しっかりと自己と相手との間にある差異を認めた上で可能な点において融和することではないだろうか。私は、この映画でPKを客観的に見ながら、神を捜すことに疲れているのは自分も同じだと気付いたとき、気持ちが楽になった。

 この作品は決して信仰そのものを軽しめている訳ではなく、本質的には敬意を払っている点もよい。