道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

風は読むものではない、克服するものだ。「神弓」

 特に先月は家にいる時間が長くなったことにより、今まで気になりつ見ることができなかった映画を見ることができた。そこで、近くて遠い隣国・韓国映画の「神弓」を見て、主人公の標題のセリフにしびれた。

 各国において様々だと思うが、日本において弓は数ある武芸の中でも最も格式の高いものとされる。武士道、もののふの道とは古く弓馬の道と称したように、弓で矢を正確に射る技術は由緒ある武人であることを証明する必須のたしなみだった(現代のように柔道や剣道、相撲道などと武道種目が独立したのは近代以降であり、古来の武人は武芸諸般に通じているのが通例であった)。
 また、弓道は現代でも礼法に厳格さが要求される武道種目であり、神事などでも魔を祓う神楽に用いられる。矢の弦(つる)が鳴る音自体に呪術的作用がある(鳴弦)とされる。大相撲では結びの一番の後に弓取り式が行われるのも好角家には恒例のシーンだ。
 そんな弓道の言葉には深い哲学性に富む言葉が多く、弓を射る動作は「放つ」ではなく「離れ」である。また正射必中と言い、自然の理にかなう時、矢は必ずあたると考えるところも他の武道種目思想の根本と考えられる。

 さて、「空気を読む」ということを「場の状況を察知する」ということだと解釈する。「空気を読む」ことに求められるのは深い洞察や分析ではなく、親和性や抑制という「感情労働」であるから疲労性が伴う。そして、エネルギーが枯渇すれば充電が必要になるから「巣ごもり」を要求することになる。エネルギーが回復しても、空気を読むという振出しに戻れば同じループになり消耗が深まる。

 「時流・時局を読む」と言った場合や「風を読む」と言った場合は、その場限りではない時間の連続性を意識し、将来を予測するという洞察や分析が働きだす。そして、多少の主体性が出てくるのだがいずれにせよ状況判断をしている段階である。「風を読む」の後に来るべきものは何かとずっと考えていたところ期せずして映画のセリフで「風は読むものではない、克服するものだ」とあったので意表を突かれた。時として、不利な風の中でも矢を放たなければならない局面がある。

 私自身、何かを読むことに没頭してしまうところがあるが、空気や風をうかがってばかりいても仕方がない。準備が万端であるとは思わないが、逆風を克服して静かに矢の離れに感覚を研ぎ澄ましたい。