道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

霊送りーイヨマンテ

 人払いをした湖畔の集落、夜の帳がおりた伝統的家屋の中で。祭礼が滞りなく進行し、まだ大任を残している緊張感から酒をあおり横たわる長老らしき男。緊張感からしばし逃れようとしているのか。耳に残る不規則的な口琴の音色。
 囲炉裏端にあつらえられた祭壇に熊の首が恭しく祀られている。半年前から世話をする熊に愛着を持っていたため、「イヨマンテ」の儀式を受容できないながらも参加することにした少年と、彼を見守る母。見るからに伝統的な料理の品々と、その器。
 イヨマンテとは何か。彼らの価値観によれば熊は神への供物ではない。熊こそが人間界に黒い服を仮装し、来訪した神なのである、その役目には人間に肉や毛皮をもたらすことも含まれている。故に人間は神である彼らに定期的に礼を尽くす義務がある。そうして喜んで帰っていただくのだ。それは野蛮性を伴う儀式と言うより、村全体が喪の感覚に包まれる中で高揚し、命の厳粛さを想う原型的な祭りではないだろうか。
 そう、熊が供物ではなく神だという証の一つには、確かにアイヌの物語りには、霊送りの対象が、霊体として自身のために開催された祭りを見届ける伝承が残されている。

 

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エゾフクロウはひときわ格の高いカムイである
先日、アイヌモシリ(アイヌは人、モシリは大地の意味)と言う映画を観ました。主題はイヨマンテなのですが、むしろ現代アイヌが抱える葛藤や、観光とアイヌとの関わりについてのチャランケ(談判)に奥行きを感じました。現代日本の価値観の中でイヨマンテが無条件に伝統的祭祀として受け入れられないことを彼ら自身が理解しているのです。

 そしてアイヌは、イヨマンテに用いる熊に「飼い熊」を用います。その形態の分布から、アイヌ縄文人に北方系民族の血筋が入り込んで形成された民族であると推察されます。そして、北海道の先住民である彼らの近代史を調査すると和人から受けた非道な扱いを知ることになります。どう言い繕おうと、北海道開拓の歴史とはアイヌ民族の財産権、社会権に対する略奪と圧政でした。差別があったとすればではなく、それは確実にあったのです。

 それは価値観の相違と言う対等な関係を想起させる交流ではありえず、日本社会が経緯をうやむやにしてしまえば和人とアイヌの関係性は観光ありきのうわべを飾るものとなります。そのような虚偽の関係性が深いメッセージ性を有する訳がないのは、むしろ子どもや、外国人(先住民問題は世界中にある)が敏感に察知することでしょう。

 現在なお残る差別に対して、アイヌの方々は「どうせ和人は俺たちを理解する気がない」と諦めを抱いているようにも私には見えます。施設としての国立博物館が近代的であり、アイヌ語公用語として併用するなどの試みがあるだけに胸が痛むことです。
 なお人権という法概念が確立されていない時代にもアイヌ民族の窮状に心を痛め、権力に対して命がけの具申をした武士などの存在があったことも併記します(私は特定の利権や訴訟とは無関係であり、一研究者として両民族間の建設的な未来を願うものです)。
 さて現代社会の中で私たちが果たすべき役目とは何なのでしょう。あなたと私の共通点とは何なのでしょう。それを考え続ける中で、新たな道が伸びてくる予感もあります。