道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

忘れられない「よきサマリア人」

 私があなたへの手紙を書こうと思った動機は大きく2つあります。まず、その一つは、あなたから頂いた手紙の末尾にあった、「私たちのために祈ってください」という言葉に疑問を抱いたことです。祈りが一体何になるのか、最善手たりえないと思いました。
 憎しみの報復は、誰かがどこかで断たなければ罪を重ね永遠に繰り返されるのみです。考えるに、身を裂かれるような同胞の悲しみも報復では真の癒しを得られません。凶行を成し遂げたが最後、次はあなた自身が相手方からの報復の対象となるのです。
 
 さて戦争放棄国際法において保障されている自衛権を認定しながら、その濫用が戦禍を拡大してきたことを認め、国内外の紛争を解決する手段としての武力行使を禁じるもの)を定める日本国憲法の成立過程は、日本が連合国軍の統治下にあった西暦1946年に公布、翌年施行されました。ハーグ陸戦条約第43条に違反の指摘も目にしたことがあります。
 しかし、日本国憲法が米国から日本への押し付けという見解もかちゃっぺないものです。むしろ公布当時の一般庶民の多くは同憲法の制定に安堵の声を上げたと見るべきでしょう。

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 そして憲法議論とは決して机上の空論ではなく、これ以上ない現状把握力と国家観が要求される、そして現実社会の政治に反映される核心だということです。私が、憲法議論や政治について慎重に考えたいのは自己が短慮であるという自覚があるからです。
 現憲法の維持を意味する護憲を売国行為と称する方もいて、私の興味はただ一点です。そのような論理が生じる背景に賛否両論が飛び交う活発な議論があったのか、さもなくば個人や閉鎖性の強い組織が議論という摩擦を経ずに出した扇動的情緒かということです。
 
 ちなみに私は、若い日にある神社の博物館で「長すぎて容易に抜けない太刀」や「羽根の一部を故意に欠損させたため直進性を失った矢」など実用性を欠いた武具の奉納品を鑑賞したことがあります。その際、学芸員?から様々なことを問わず語りに耳にしました。
 「戦のない世を古い時代の人々も望んでいたということなんです」と説明を受けました。その時に、武具が実用性を失うほどの太平の世の到来が、皇室であり神々の祈りなのだと、個人として感じたことが本文を書いた動機の二つ目です。
 
 私が知性的な改憲派に伺いたいことは、日本が軍隊を有して、他国並みの交戦権を有した暁の次の一手、更に、その先の外交方針です。なお私が、平和憲法を有している現状を何とか活かしたいと考えるのはチェスや将棋というより、囲碁の発想なのかもしれません。
 思うに1946年当時、自衛戦争を禁じてでも戦争放棄を新憲法に定めたかったのは結局は日本人自身だったのでしょう。恒久平和が地上に実現される確率はゼロでも、私は、戦争放棄の維持をしたいと独立個人として考えます。そして、それ自体を目的化することなく、議論における心的重心の位置を抑え日本のあるべき姿を友と問い続けたく結論とします。
 
 もしあなたが将来、日本にいらっしゃるなら特殊製法の醤油の用意をしておきます。お土産屋には、あなたがよく知るアニメのキャラクターの文具があります。本好きなあなたに緑豊かな公園に隣接する図書館を真っ先にお見せしたいものです。