道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

函館山麓ロマンスー港の灯りと恋唄と

 明治以降の函館は国際貿易と日露戦争以降の遠洋漁業で栄え、昭和10年までは東京以北最大の都市であった。昭和15年国勢調査で初めて札幌市が函館市の人口を上回るのであるが、それは昭和9年に発生した函館大火の影響がある。

 

 函館大火については稿を改め検証を加えるが、函館の旧市街地の街並みは防災上の工夫が施されている。それは例えば、幅のある真っ直ぐな坂道だ。

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上の写真は基(もとい)坂

 

 函館山山麓(元町、青柳町、船見町など)は、坂の街である。その坂の一つに日和坂(ひよりさか)がある。この名は坂の上から、巴水の港を見下ろしてその日の天気を占ったことに由来する。そして、坂の頂には舩魂(ふなだま)神社がある。神社から港を眺めて、好天や航海の安全を祈願したということは理にかなっている。

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上の写真が日和坂 

 

 タイトルから、石川啄木の短歌「函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花」を連想した方もいるかもしれないが、本日の記事の舞台は舩魂神社の夏祭りである。

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 船魂神社は、広く海上の安全を祈願する神社である。進水式や出漁祭、船のお祓いなどのご祈祷をするところがユニークである。 

 

 人生を航海に例えるなら、開運や道開きを当地で祈念するのも相応しい。(本記事は民俗学、まがりなりにも学術の立場であるので、ご利益が期待できるという言い方は控える。)

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 また当地は、1135年開基の時点では神社ではなく観音霊場、つまりお寺・お堂である。したがって、道内最古の神社であったということを強調すると事実から離れる。

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 また、当地には義経伝説もあるが敢えて真偽の判定はしまい。重要なことは青森側から津軽海峡を船で渡る際に函館山が目印になっていた可能性を推測できることである。

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 それにしても提灯のあかりというのは幻想的な演出効果を伴うもので、この薄闇の空間は神聖な異界と言って差しつかえないものに変貌を遂げている。怖いとも違う、荘厳とも違う、奇妙な安堵感のような。時折聞こえる池の蛙の鳴き声がなければ、向こうの世界のような印象すらある。

 

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 境内の一角ではカラオケ大会が催されていて、神社の社殿の中では御神楽(おかぐら)が奉納されていて、両者の音がハレーションし、一体何が祭礼の主体であるのか、よくわからないながらにカラオケ大会の方に行ってみる。

 

 「ベサメ・ベサメ・ムーチョ」「私から誘うかもしれない」という、やや煽情的な唄が聞こえ、それが、妙にこの場に同調している。うまいとかを超越した、まさに夏の夜のソウルフルな歌声だ。

 

 その余韻のありすぎる旋律が耳から離れずに、意味を調べ、意外な事実を知る。ベサメ・ムーチョとはスペイン語で「私にたくさんキスをして」という意味だということ。そして、その作詞をしたのは、キスを罪深いものと感じているような当時16才足らずの少女であったということ。

  

 そういえば、船魂神社の隣には函館市立西高等学校があり演歌界の大御所、北島三郎を輩出している。考えてもみれば、港があるということと、音楽が生まれること、恋が生まれることは近い関係にあるのだ。