道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

気まぐれ短歌①山姥

 山岳信仰という言葉から察せられる通り、古来より山は異界であった。いと清らなかなる山紫水明は神々しくいて尚、心得なき者がみだりに足を踏み入れるべき場所ではなかった。山道を自由に往来できる者は猟師か山伏と相場が決まっていた。 

 さて、山姥というからには女なのだろう。年の頃はわからない。髪艶やかにという表現からは、一定の若さを推測させる。長い髪、黒い髪は旺盛なる生命力の象徴でもある。ウィキペディアには山姥の項に、山姫という鉄砲の玉を手で掴み取る若い女の妖異の記述もある。

  髪艶(つや)やかにして笑み含めり。山という異界の一軒宿のぼんやりとした灯りに照らされて。好奇心と恐怖心が一体となった心騒ぐ感じ。そもそも、山姥と歌詠みとの距離はいかほどか。

 ふすま越しに庖丁を研ぐ音が聞こえるというのではない、障子越しに庖丁を研ぐ姿が見えているのでもない。研ぎに対する満足、即ち彼女の顔に浮かんだ笑みを見て取れていることから、彼と山姥の間を隔てる何かはないとも考えられる。なにゆえに、彼女は夜に庖丁を研がなければならなかったというのか、疑心暗鬼に駆られる。 

 いずれにせよ想定における山姥が庖丁を手に笑みを浮かべている。それは人外の妖艶な魔性であろうか。山奥の一人宿、食べなれない肉料理、落ち着かない部屋のあつらえ、我を忘れたように庖丁を研ぐ女、それは偶然に覗き見た密儀。

 しかし、ここで言う山姥は妖異の雰囲気を兼ね備えてはいるが、単に山の娘の比喩的表現に過ぎないとも考えられる。猟師を平素の生業としている家の娘であれば、仕事の終わりに庖丁を研ぐというのも道理だ。小さなものであれ、刃を扱う時というのは気を張り詰めるもの。研ぎ終わり、髪をかき上げ、安堵の表情を見せただけのことかもしれない

 つまり、男の中の何らかの怖いもの見たさが、ただの山宿の娘を怪異に仕立て上げてしまったのである。