道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

正義を装った怒り

 第92回アカデミー賞・主演男優賞に『ジョーカー』出演のホアキン・フェニックス氏が選出された。「ジョーカー」を昨年に見ていた私は確かにという思いを抱いた。鬼気迫る道化師の演技であった。

 

 かいつまんで言えば、同映画で描かれていたものは個人レベルとも言える不条理や不運が最後には抑えがたく増殖し、燎原の焔のように街全体を包む憎悪になるというものだ。

 格差社会の現実を表現した救いのない作品でもある。ささやかな善意を持つ人が彼の周りに一人でもいれば、結末はあそこまで惨憺たるものへとならずにすんだのではないかとエンディングテーマの流れる映画館で茫然と思案した。

 

 そして、このときに感じたことは、怒りは、しばしば社会正義を装って発露されるということ。つまり、芸能人の不倫などが執着的な話題になる現代は、多くの人が心に怒りをため込んだ世相と言える。

 

 というのも例えば20年前頃、世間一般に妙なポジティプ志向があった。根拠もなく、何とかなるというような。悲観になることを許さないような。それとも、それは私の若かりし頃に私の周りの人だけがそう振舞っていたのであろうか。そうではあるまい。

 今はどうだ。ポジティブ・シンキングとかいう書籍もあるが、実態としては世相が一様に暗い。国力の低下という大げさなものではなく、ある意味、もっと深刻な状態。国に活気そのものがない。人は大勢いるのに静まり返った市場のような空虚感。(コロナウイルスの影響により、現実に観光地は閑散としている)

 

 本題に帰ると、怒りは敵意を煽る。本来であるなら穏便に片付く出来事も怒りに感情を搦めとられてしまうと解決策が見えなくなる。例えばグレタさんが好例である。彼女の純粋な動機や行動力には敬意を表する。メッセージ性は抜群である。しかし、検証に堪えられる効果はあったといえるか。解決策の本質を見えにくくしてはいないか。

 

 私見であるが、米国大統領であるトランプ氏を想起しても怒り、何かをなじっているような光景が真っ先に思い浮かぶ。そもそも、それは正当な怒りなのか。いや、世界中の指導者が皆一様に怒りに我を忘れているような印象さえある。我が国の安部首相を思い起こしても真っ先に浮かぶのは野党からのヤジに対して、声を荒げて過剰気味に反応している姿である。そこに一国の宰相としての度量はあるか。本来検討に値する野党からの審議要求も撥ねつけてしまっているのではないか。

 

 世界中の指導者は一体何に怒りを露わにしているのか、その雅量のなさが結果としてもたらしているものは何なのか。自らの正当性を主張するがために、怒りで不正や、不当性をごまかすという手法をとっているに過ぎないのではないか。本来それを牽制しなければならない報道や有権者も、その怒りに同調して低次のいがみ合いをしている。

 「不思議なことに怒る人は増えた。叱る人は減った。」という趣旨の「お寺の掲示板」の言葉を沈黙の中、吟味する。