道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

民度・・・あいまいな言葉

 コロナ騒動が起こる前、日本人の民度は高いという説を私はしばしば耳にした。しかし、コロナ騒動以降は見聞きすることがない。

 断っておけば、私は戸籍も祖先も日本人である。同胞の日本人を貶める気はない。しかし「我々は、世界の中で民度が高い日本人なのだ。祖国に感謝せよ。」などと言う自惚れにも近い思い上がりを内心苦々しいと感じていた。賛否を呼んだ「日本、死ね」の方が一面の正直な庶民の声だろう。 

 日本人の民度は高くはない。それが令和二年三月の、私の見解である。高かったものが急に低くなったという話ではない。

 民度という言葉自体、選民思想的な浅ましい響きがある。民度なる言葉がー民族としての特徴を文明や精神性を示す疑似指標だとすれば、日本人は精神性もさることながら文明性の高さも、いずれ低下するのではないか。それが全てではないが、学生の基礎学力は国際集団の中で低下しているという話を聞く。

 伝統的な信仰が衰退し、心の拠り所を失い、かといって科学が万能ではないことを認識した結果、却って昔より迷信などに感冒されがちで、かといって志や希望もなく、精神的に不安定で気鬱気味の人が多いという印象が現代の日本にある。私自身、民俗学に所属する者として事実と事実でないこと、即ち嘘や創作、誤認を峻厳に識別する努力をしているが、油断すれば空気と言う名の安っぽい同調に組み込まれる危険を常に感じる。

 信仰と言う名の単なる依存や、ご利益信心は掃いて捨てるほどあれど、厳粛で敬虔な祈りが、この国の日常の光景に、あまり見られなくなったことは誠に残念である。

 

 現代日本人の民度を、どう測るべきか。測定の絶対的な基準などないのだから、わからないという答えが思慮深いと私は考えている。ほしいままに私論を述べられる民度などと言うでたらめな言葉を軽率に使うものではない、骨のある昔の日本人の爺様は、きっと、そう、のたまう。