道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

いにしえ人の言葉①災難に遭う時は、遭うのがよい。死せる時には、死せるがよい。

 良寛(1758 -1831)。江戸時代後期の曹洞宗禅宗)の僧侶の言葉。号は大愚。本名は山本栄蔵。

 

 良寛には子供との遊びに夢中になる逸話が残されている。和歌や書などにも通じていた。和尚様というより良寛さんという呼び方がイメージによく似合う。冒頭の言葉は、知人への返信にしたためたもので、これが災難を逃れる妙法(秘訣)であると結んでいる。(現代語訳)考えようによって非常に厳しい言葉である。

 ちなみに、手紙の宛て主である知人は直近の地震で家族を失っており、切実な苦しみの最中にある。下手な慰めを言おうものなら反感を招きかねない背景にあった。

 例えば「この仏像を拝み、この経をお唱えすれば」多少の災難からは逃れられるなどということを良寛は言わなかった。一日十分ほどでも座禅を組むべしなどとも言わない。僧侶といえども、天災や事故・事件、様々な些細な苦しみからも逃れることはできない。それが冷然な事実であることを既に老境である良寛は知りすぎていた。

 

 おそらくは、地震の惨状を知らせる知人からの手紙において「私は家や家業や、近しい者をことごとく失いましたが、禅師である良寛様なら様々な災難から逃れる妙法をご存知なのでしょうか」と、心の持ち方の助言を求める言葉があったのではないだろうか。

 良寛が返信の結びで、この言葉に辿り着くまでに、どれ程の時を必要としたのかはわからない。これほど潔い言葉は思い付きでは書けないという気がする。この言葉に対する感じ方も十人十色だが私には、この言葉に淡い覚悟のようなものが感じられ印象深い。

 

 つい先日、コメディアンの志村けんさんが逝去された。その死がヘイトに結びつけられているという記事をヤフーニュースで読んだ時、唖然とした。志村さんの死は中国のせいだという分断を煽る主張である。

 その主張に論理性があるか否かとは別に、中国に対して批判や非難があるなら正当にすべきで、コロナに結びつけて中国を攻撃するのは私は支持できない。同じ意味で、トランプ政権も支持できない。その自制のなさは必ず新たな災難を呼び込む。

 

 あるブログの記事で、今こそ本当にしたいことをしようという記事があった。しばらくの間、世相を綴るということやオピニオン記事を書くということからは離れ仏教者の言葉について考察を加えていくこととする。その中で、知っているつもりだったことを見直していきたいと思う。

 反応が薄くとも、10回ほどは連載を続けたい