道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

胸を打つ哀愁 インスピレーション(鬼平のエンディングテーマ)byジプシー・キングについて

 マイブームと言えば、それまでなのだが、何故か、その時繰り返し聞いてしまう音楽というものがある。そのブームは一週間程度のものだったりして、しかも今知った歌(曲)ではなく、以前から知っていて、深く気にも留めていなかったものだったりする。

 

 その時の世相が必要とする音楽というものがあるのだと思う。その時の、その人の内面が強く求める音楽というものがあるのだと思う。悲しいときには哀愁を帯びたメロディーが心を癒やす。であれば、私は今、悲しいのだろうか。

 志村けんさんが亡くなったということが、少し遅れて、想像以上に悲しいことのような気がする。別に好きだったのではなく、嫌いだったわけでもなく、しかし深い部分では親しみの感情を抱いていた相手だったのだと思う。

 

 その死を悼むとき、喪失感のような、やりきれなさのようなものを感じる。私としては横綱千代の富士がなくなって以来の、受け入れがたいような感覚が持続している。その哀しみというのは、本人を好きだったとかということとは関係ない心の働きなのだ。

 

 子供の頃の印象と言えば、それまでなのだが、令和の今も私にとっては横綱と言えば千代の富士で、落語家と言えば先代円楽で、コメディアンと言えば志村けんなのだ。いや、そもそも私が今、ジプシーキングのインスピレーションを繰り消し聞いているのは志村けんとは関係がないかもしれないのだけれど。

 

 よくもまあ、時代劇のエンディングテーマにラテン調のギター曲を選んだものだと感心する。時代劇で描いているものは日本の心かもしれないけれど、日本の心って日本人にしか理解できないような、そういう狭いものではないのだ。志村さんのファンが意外にも海外にも多く、言語の壁さえ超えていた節があるように。

  

 本物の持つ力は時や所を簡単に乗り越えて、それに触れる人の心に訴えかけるのだと感じる。