道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

いにしえ人の言葉⑤君は古人の言葉を借りて、誤った解釈をしているぞ

 虎の威を借る狐。あやふやな自分の考えを言うより、他者の言葉を借りてコメントをした方が正確に自分の考えを述べられているような気がすることがある。

 なお言えば人の言葉を借りながら、話を誇張したり、意図的ではないにせよ誤った解釈を述べるというのはまずい。それくらいなら他者の権威にすがらず、自分の意見として、しっかり主張をすればいい。まぎれもない自分自身の言葉なら権威はなくとも、人の心を打つ力はある。

 禅では時に不立文字として敢えて明確な定義を避けることがある。しかも、根源的なキーワードになればなるほどその傾向が高まる。例えば悟りという言葉の薄っぺらい言語化などはしない。(言語の才に長けていた空海も最上の悟りの明確な定義をしていない。)

 座禅は習禅にあらず。座禅そのものが悟りである。などという言葉を部外者が聞いても意味は不明である。(表面的には理解できるが、内容に矛盾を含むことになる。)その意味の不明さが禅的である。意味を知りたければ、君も座ってみろ。そういうことだ。

 

 標題の句は永平寺における禅問答の中でのやり取りの一つ。前後の受け答えは覚えていないのだが、私自身が現在、いにしえ人の言葉と銘打った連載をしているために、ここだけが非常に印象に残った。(明確に道元の言葉であるかはわからない)

 

 時折、テレビで永平寺の過酷な禅修行の様子が放映されることがある。私は大抵それを見るのだが、この稿を執筆するにあたり、正確には法戦式と呼ぶ禅問答の動画を改めてチェックしている。

 調べると、法戦式というのは台本に沿って行われていることがわかった。考えても見れば、20代そこそこの若者が、禅語特有の難解な語句を自分の言葉で言っているわけがない。しかし、永平寺の禅僧の禅問答に関しては教則本があるということを忘れさせる迫力がある。

 (試しに、動画で法戦式と検索するといくつか出てくる。個人の感想を言えば、永平寺以外の問答はいかにも形をなぞった討論劇という感じである。)

  

 今回の記事は、禅を迂闊に論じるとしっぺ返しを受けるというような緊張感から、迫力と厚みに欠ける記事となったが次回は改めて、日本における曹洞禅の開祖・道元の言葉を扱いたい。