道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

精神性が高いから争いが少ないのか

 先日、転倒防止の冬靴を買い替えチャチャ登りの現地視察に行った帰り道、お寺の掲示板に「天命に安んじて人事をなす」と書かれているのを見ました。いい言葉だと思ったのも束の間、天命とは何ぞやと言う疑問が湧いてきました。そうして帰宅しテレビを点けると我が国の首相が「最終的に生活保護と言うシステムがある」という話をしていてました。
 それから数日が立ち新聞で、生活保護を受ける適否審査の「親族に関する要件」の緩和が検討されている報道を目にしました。制度は時代の実情に即したものに改められ続けなければなりません。加えて述べると、議員報酬や議員年金に関する問題提起が一部議員からなされていますが、私は率直に議員は選挙活動に資金を使いすぎだと考えています。特に選挙カーからの名前の連呼は政策の不足を欺いているかのようです。
 
 と言うのも日本は原則的に民主主義国家です。そして選挙活動をめぐる収賄などの不正がしばしば取り沙汰されています。それは政治家個人の過失性だと私は考えてきたのですが、むしろ形ばかりの民主主義が持っている宿命的欠陥だと疑い始めています。
 つまり、選挙がシステムとして現職議員を含む立候補者に多大な金銭を要求するものであるなら現行の選挙制度は常に金持ちが優遇されます。自らは立候補をせずとも金を票に代える錬金術を用いればよいのですから。力は公正に使える者が持たなければなりません。真の民主的とは威力を用いない限り、少数者が意見を主張できる仕組みでしょう。
 再度手がかりを求め古代の人々の精神性を、もう一段掘り下げようと思います。

 縄文遺跡からは推定六十歳以上の老人や先天性の疾患を患う成人女性の人骨が発掘されています。墳墓にまつわる副葬品からは、必ずしも社会は平等だったとは言えませんが、老人や病人が保護の対象であった示唆であると述べるのは正当でしょう。 
 
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 古の人々は、季節の恵みを山や海の神からの授かりものとして食し、狩猟成果の分配は胆を除き公正に仲間に配分していたものと推測されます。(参考:現代において、山の猟師を自任するマタギと呼ばれる人々は秤りを使用し、食用部分を1グラム単位まで同行をした狩猟仲間に分配する。これをマタギ勘定と呼ぶ)
 なお食事に際して、自然の動植物の命を摂取することへの古代人の畏怖・畏敬の念は、「頂きます」という食前の挨拶に現代でも継承されているものと察します。
 この言葉の由来は多分に禅的影響も感じさせるのですが、列島独特の感性が凝縮された言葉であると感じられます。強いて訳せば「私は動植物の命を頂き我が身を養います」でしょうか。

 ときに専門家も陥りがちですが、縄文人は精神性が高かったから、その遺骨に闘争痕が少ないという考察は客観性を欠く誤りだと私は感じます。それよりも社会的格差が小さく、身近に鋭利な対人用の武具がなければ必然的に闘争が減ると見るべきでしょう。
 言い換えれば社会的格差が強く、鋭利な武具が身近にあり、武具を管理する者に倫理性が不足すれば人は必ず争いを起こすのであり、それが現代社会や国際情勢の一面でしょう。この社会的ピラミッド構造の傾斜をゆるやかにすることが政治と教育の役割と考えます。