道南民俗学研究会

虚飾を捨てた文章を書きたい。

我ら一同、いずれ死せる身なれば

 先月、94歳で一人暮らしをしていると言う女性と職場で1時間ほど世間話をしました。再び、来訪するのがいつかわからず一期一会と言うべき出会いでした。長寿の秘訣を聞くと、夜中の3時に起きてラジオで懐メロを聴く、そのため朝の起床は遅い。肉類をよく食べる。いつ死んでもいいが感染症予防はきちんとしているという点が印象的でした。

 欲少なくして足るを知る。それが幸せな人生を送る秘訣なのではないかと最近、私は感じます。人生に必要なものとは良書と、それを論じる友がいることかもしれません。
 民俗学者として私が興味ある分野の一つは仏教です。禅の教えに「まず臨終のことを習うべし」とあります。私たちは生まれた以上は等しく亡くなることを理解しています。
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 死後の世界があるとか、ないとか、それには興味がありません。論より証拠。理性的な証明をできえない話題を論じても迷信でしょう。それより、余生が短いということに気が付いて人は、命を慈しむ気持ちが生じます。所詮今生においてのみの一度きりの命。
 どう生きればよいのかが分かりにくい時代に、務めと信じられることに余命を捧げたいものです。その上で言えば一人の生命体として安楽に生きられれば、それで十分です。

 話は変わりますが「西遊記」に登場する唐代の実在の訳経僧・玄奘は、サンスクリット語を漢語訳する工程で、意味を持たない音写の漢字を当てる規則を定めます。この際重要なことは彼自身は原文の正確な意味を理解していて、意味が精確に伝わらないことを怖れ翻訳を避けたということです。原文の意味を知る必要がないなら、19年間に及ぶ彼の取経の旅自体がただの無目的な放浪と実益のない学問ということになります。
 ところが、漢語の経典が日本に入って来るや、その音写は意味などを知る必要はなく、神秘的な呪文であるから繰り返し唱えることに意義があるという解釈が強調されます。
 その弊害は未だにあり、例えば般若心経と言う大経要典の末尾の呪文部分は研究者個々のポエム的解釈が横行しています。そして「皆ともに安らぎの世界へ到達できた喜びよ、めでたし。」という正面からの解釈が少ないのが残念です。つまり生きとし生けるものは数限りないが、その一切は安楽へと至ったという、大乗仏教の根本理念の成就を説いています。
 
 安楽。聖火リレーが開始されたオリンピックが平和の祭典と本当に呼べるのかが私には不明ですが、ところで、この国では平和と言う言葉を口にすると左翼政党や新興宗教団体との関与が疑われ、核兵器をめぐる話題に至っては、議論すること自体が避けられるものだという認識があります。それ故、周辺の知識はあっても、自分の考えがないという方が多く見受けられます。
 法句経130、すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

 仏教徒が他者を迫害することも、他者から迫害を受けることもあってはならないのは道理です。そして、暴力を戒める精神性は、おそらくは他宗教にも底通するものと考えたいです。さて客観的に言えば在家仏教徒の私が国際平和に貢献できることとは日々の読経ぐらいのものなのでしょうか。  
 朝に夕にと、それほど長くはない経文を唱えつつ、この儀式の継続に何の意味があるのか、私にもできる国際平和への貢献は何かを問い続けています。